bulletin2021_1
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医学史の散歩道57金沢医学館 キンストレーキは、フランスの解剖学者オズーLouis T.J. Auzoux(1797年-1880年)作の紙製の張子(papier-mache)の精巧な組立式人体全身模型のこと。130パーツ、1700ピースに分解できるという優れものである。人体解剖が難しかった当時、人体解剖学の修得に重用されたと言われる。わが国にはオランダを介して輸入された。加賀藩種痘所の頭取となって医学教育の任にあたることとなった黒川良安が長崎におもむき、1869年にこれを購入して持ち帰った。その後国内でもレプリカが生産されたが、わが国に現存するキンストレーキはわずか4体で、長崎に1体、福井に2体、金沢に1体が保存されている。中でも金沢大学医学部記念館資料室に保存されているこの1体は最も保存状態が良好で、全身が完全な形で残されており、医学教育に貢献した遺産として重要文化財に指定される価値のあるものと思われる。(写真は金沢大学医学部のご厚意により掲載) 加賀藩は1862年(文久2年)蘭方医養成のため、彦三種痘所を開設した。これは金沢における西洋医学による医学教育のはじまりとされている。当時、天然痘がしばしば大流行し死亡率も高かったが、唯一の治療法である牛痘接種法がようやく導入されはじめた。1870年(明治3年)臨床施設の拡充の必要に迫られ、大手門前の目抜きの場所にあったこの重臣津田玄蕃邸を金沢医学館とした。明治時代に入り近代化が進むにつれ、制度もめまぐるしく変遷し、医学校の本体も、金沢医学校(1873年)、石川県甲種医学校(1884年)、第四高等中学校医学部(1887年)、金沢医学専門学校(1901年)と変遷する中、この建物は臨床教育の場として使用された。1903年に小立野の現金沢大学医学部のある場所に金沢医学専門学校(官立)の校舎と病院(県立)が新設されるに至ってその役割を終えた。この建物はその後1923年に兼六園内に移設されて現在も往時の姿で保存され、一部は公園事務所として使用されている。金沢の医学教育の遺構金沢医学館金沢の医学教育の遺産キンストレーキ Kunstlijk (人工の死体)

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