10/06/29
■サルモネラとTSI培地
【質問】
 いつも拝見させて頂き, 大変役立っております。

 チフスを否定する手段の一つにTSI培地を用いていますが, 一般のサルモネラで硫化水素陽性なので高層部はやはり陽性となりますが, “斜面部はなぜ黒色に変化しない”のでしょうか??? ご教示よろしくお願いします。

【回答】
 質問を以下のように整理してみました。

 「TSI高層部の黒変は硫化水素の産生を意味しますが, 硫化水素産生菌は何故, 斜面部の黒変を起こさないのでしょうか」

 まず, 硫化水素は硫黄を含む化合物の存在が不可欠で, TSI寒天培地ではペプトン中の「シスチン」と「チオ硫酸ナトリウム」が該当します。前者の「シスチン」は有機の硫黄ですが, 後者の「チオ硫酸ナトリウム」は無機の硫黄です。ここでの質問はサルモネラですが, 例えば大腸菌は有機の「シスチン」から硫化水素を産生しますが, 無機の硫黄源からの産生は出来ません。でも, サルモネラはどちらの硫黄源からも硫化水素を産生できます。ここで, サルモネラだけではなく, 腸内細菌科に含まれているほとんどの菌は多かれ少なかれ「硫化水素」を産生するのです。しかし, 鋭敏度の最も鈍いTSI寒天培地が菌種の鑑別に際しては好都合なのです。そうです, SIM寒天培地や酢酸鉛ろ紙法では鋭敏過ぎて, すべてが硫化水素産生が陽性になってしまうのです。

 さて, 腸内細菌科の菌の硫化水素の産生において, 一部の例外を除けば, 無機の硫黄源 (ここではチオ硫酸ナトリウム) からの硫化水素産生は, グルコースの発酵産物によって産生性が促進されるのです。換言すれば, グルコースの発酵は, チオ硫酸ナトリウムからの硫化水素産生の前提条件になるのです。しかも, この硫化水素産生はpHに大きな影響を受けます。つまり, pHが著しく低下した環境では硫化水素の産生は抑制されるのです。グルコースは0.1%しか含まれていませんが, 乳糖と白糖は十倍量の1%含有されています。ですから, 乳糖または白糖分解菌は培地のpHの低下が著しくて, 例えば Citrobacter 属菌では硫化水素の産生が抑制される傾向があるのです。でも, サルモネラは乳糖/白糖ともに非分解ですから, 極端なpHの低下は起こりません。

 硫化水素は気体です。その気体である硫化水素が斜面部で産生されても, 硫酸第一鉄と反応して黒色の硫化鉄が生成される前に多くは大気中へ拡散していってしまいますが, 高層部では大気中への拡散はかなり制限される筈です。加えて, 硫化水素そのものの産生量が高層部と斜面部とでは異なるのです。斜面部では, 0.1%という微量のグルコースは完全に二酸化炭素と水にまで分解されて, 培地pHの低下が起こりにくく, 乳糖/白糖非分解菌であれば, ペプトンの分解からむしろアルカリ化します。つまり,「チオ硫酸ナトリウム」からの硫化水素の産生はかなり制限を受けることになります。一方, 高層部では, グルコースは嫌気的な「解糖系」で分解され, 培地pHの低下によりフェノールレッドが黄変します。この段階で「チオ硫酸ナトリウム」からの硫化水素の産生が促進されて, 相当量の硫化水素が産生されます。高層部ですから, 産生された硫化水素は大気中への飛散もしにくく, 硫化第一鉄と反応して黒色の硫化鉄を産生できるのです。

 さらに, 硫化水素の元になる「チオ硫酸ナトリウム」が培地にどのくらい含まれているかですが, TSI寒天培地では0.003%とかなり微量ですが, 培地表層部でも黒色集落を形成することが出来るSS寒天培地では、0.85%と百倍以上の高濃度が含有されています。この含有濃度の差も重要なポイントなのです。培地は実に巧妙に出来ています。先人の努力と汗の結晶です。メカニズムを知れば知る程, 開発評価して来た先人に敬意を表したくなりますね。

(信州大学・川上 由行)


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