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2024年1月1日 能登半島地震の記録

令和6年 能登半島地震 現場の記録

金沢医科大学整形外科 診療科長 兼氏 歩 令和6年1月1日に能登を中心に発生した令和6年能登半島地震。
最大震度7という非常に巨大なエネルギーを持った地震が年明けの能登を襲った。
元日ということもあり、能登に帰省されていたご家族を巻き込んだ大災害になった。
能登半島は周囲を海に囲まれ、また、小高い山々が点在する風光明媚な地域である。
地区毎に有名な祭りが行われる、人々のつながりが濃密な集落で結ばれた古きよき日本の地方文化が根強く継承されている素晴らしい地域である。

 しかし一方で、半島という特性から石川県の中央地区から多くの物資が供給される土地である。金沢市から延伸される、のと里山街道が唯一の自動車専用道路であり、列車移動よりも頻用される交通手段である。海から容易に行くことができない土地に発生した大震災。また過疎化し、高齢者が多いだけでなく、古い家屋も多く存在していたことも大災害になった原因のひとつかもしれない。

 このような状況の中、金沢医科大学整形外科関連病院である、公立穴水総合病院、公立宇出津総合病院に勤務していた計4名の整形外科医が実際に体験した、令和6年能登半島地震のあの時、現地の被災状況、医療機関の現場の状況がいかに悲惨であったか、その中で彼らを含む医療スタッフ、病院職員の皆様が何を考え、どう対応されたのか、また、何が大変だったのかご執筆いただいた。今後同じことが発生することを想定し、どうしておくことが人々の生命を守る手段になるのか、そのために何をしておくべきなのかを多くの方々に考えていただくきっかけにしたい、そんな思いを込めて4名の先生に手記を依頼した。時間経過とともに忘れられていく記憶を記録として残し、多くの方々が能登半島地震復興に向けて更なるご協力をいただけることを祈っている。

2024年能登半島地震を振り返って 整形外科医としてのエコノミークラス症候群予防検診の関わり

公立穴水総合病院 整形外科 波多野 栄重  穴水総合病院の波多野と申します.
 私は2020年より当院に赴任しておりますが,卒後2年目の1年間と2006年から2009年の3年間には公立宇出津総合病院で勤務し奥能登の医療に関わっておりました.普段は病院から徒歩数分ほどの官舎で,オスの愛猫のレオと単身赴任生活を送っています.奥能登は交通網が不自由な場所ですが,学会はWebで参加できますし,週末は奥能登でドライブや写真撮影などをして僻地での生活を楽しんでいました.

 2024年1月1日,北陸では珍しい元旦の快晴です.前日までの病院の整形外科拘束を終え,内灘の自宅に戻り愛犬の柴犬の小雪との散歩や,小濱神社へ初詣したりと,今年は穏やかな元旦の始まりで幸先いいなと過ごしていました.地震の発災時はかほく市のショッピングモールで家族とどこのケーキを買おうか迷っているところでした.地震の揺れと客の悲鳴,棚から物が落ちる音のあとに駐車場に出て地震速報をスマートフォンで震源をみると奥能登!!震度7!?病院としては暗黙のルールとして震度5以上で招集(2023年の珠洲地震のときも七尾で青柏祭をみていたときにも戻った)だったよなと思いつつ,家族を送り届け,津波警報が鳴り響くなか能登に向かうことにしました.最初に病棟用のスマートフォンのSNSの電話で連絡し,病棟の入院患者の被害を確認しました.のと里山海道は,柳田を過ぎたところから波打ち,次第に道路に亀裂と段差を認めるようになり,薄暗くなったことからタイヤのパンクだけはさせられないと慎重に走行しました.走行している車両は少なかったですが,中にはかなりのスピードで下りの能登方面へ走行している車両もいました.徳田大津を過ぎたところで,路肩に停車をしている車を見かけるようになり,ジャンクションを超えたところで対向車はなく,慎重に片側1車線を走行していくと,路面は崩落していました.震源は門前沖だったよなと,徳田大津での下車をやめ遠回りにはなるが七尾方面,田鶴浜から七尾湾沿いに向かうことにしました.

 田鶴浜まで走行できましたが,橋梁との段差を乗り越えられず,停車している車両を横目に通り過ぎインターを下車しました.それまで里山海道を走行して住宅の被害をみることはなかったのですが,田鶴浜で傾いた電柱,垂れ下がった電線,損傷した家屋を目のあたりにして,事態の深刻さを感じました.ここで整形外科の内海先生と途切れながらも,無事であること,病院は津波警報で避難者があふれていることを聞くことができました.途中,橋梁との段差で通行できないところが複数あって引き返しては迂回路を探したり,迂回して狭い道へ入ったら傾いた家屋と電柱の隙間を潜り抜けたり,津波?で濡れた海岸沿いの道路,中島で火災をおこしている家屋,そして鳴りやまない津波警報と,通常であれば二次災害となるので引き返す判断が妥当な状況でした.病院もですが,それよりも愛猫が倒壊した官舎の下敷きになったりしていないかの恐怖で正直気持ちは一杯でした.穴水に近づくにつれ倒壊家屋は増え,陥没した道路に落ちた車両をみながら,停電し真っ暗な穴水に到着しました.官舎は倒壊していませんでしたが,鍵がかかっていたはずの扉は地震の揺れで開いており,足の踏み場がない状態で,愛猫は逃げ出したのかいませんでした.付近を探してもおらず戻ってくることを信じて,病院へ向かいました.平時であれば穴水への移動の時間は1時間程度ですが,引き返して迂回などを繰り返して気づくと2時間半ほどかかっていました.

 病院は避難者であふれかえり,まず状況の把握を行いました.医師は,元旦の日直をしていた島中院長,内科は一宮先生と大筒先生,外科系は整形外科の内海先生がすでに患者の対応をしていました.病棟は,入院患者は無事であったことを確認しました.発災時が日勤帯と夜勤の交代であったことから病棟の看護師さんは充足していそうと判断し,避難者が殺到しているという病院5階へ向かいました.そこで研修センターで縫合をしている内海先生に状況を教えてもらい,救急外来へ戻りました.
 状況を把握していくと発災とともに避難警報が発令されたことから,病院は指定避難所ではないものの避難者が病院の5階に殺到,入りきれない避難者は病院の外来の2階,そして1階へ避難してきたようでした.発災直後の,病院の稼働状況ですが画像診断装置はX線撮影装置のみ稼働,検査部は断水のため生化学検査は行えず,血液ガスのみの状態でした.
 病院の固定電話は不通となり,救急隊が搬送者の状況も伝えることがないまま搬送し,搬送者をおいて再度出動していく状況でした.また携帯電話も病院到着時には次第に電波も入らなくなり,孤立している状況でした.
 発災当初の受傷者を診察し,一旦診療が途切れたため官舎へ猫を探しに戻ったところ,泥だらけになって浴室にいるところを発見し,病院内の医局の自室へ猫も避難させました.(当院は昔ながらの医師に個室が与えられている病院です)院内には私だけでなく,犬などのペットを連れて避難している方も見受けられました.一番の心配であった猫の安全を確保できたので,仕事に集中する態勢になりました.猫との自室での避難生活は3週間ほど続きました.

 1月2日,朝6時半.前日は猫も避難させた後に,診療して寝落ちしてしまいました.目が覚めて救急外来へ向かうと3時頃より島中院長が一人で診療されており,大変申し訳なかったです.8時に外来が途切れたので官舎へ食料と下着をとりに行きました.病院の傍に小又川という川があるのですが(春はイサザ漁をしている川です)茶色く濁って上流の土砂崩れなどがあったことを想像させられました.9時には土砂崩れの倒壊家屋から自衛隊に救出された高齢男性が搬送され,先日から院内にいる医師で診療にあたりました.救急隊も病院へ連絡もできずに搬送してくることから,3台同時に受け入れという光景もしばしばありました.多くの方を診療していたはずですが,印象に残っているのは,姉とおばを家屋の倒壊で亡くした県外から来ていた女児(姉が亡くなったこと翌々日のネットのニュースで知った),高齢の女性で地震で屋外に出たが,コートを取りに行こうと避難に手間取った夫が二度目の地震による倒壊で目前の玄関で押しつぶされたと,あきらめにもみえる表情で淡々と話されたのが忘れられません.
 病院の診療機能も損なわれて,道路状況もかなり悪いため高次病院への移送も行えず,また救急隊の移送まで回す余裕がなくなっていることから,やむをえず入院させていくことから満床となり,外来処置室もベッドの代わりにするという状況に陥りました.外来フロアの椅子も避難者であふれかえり,患者なのか避難者なのか見分けがつかなくなりました.次第に発災当初の外傷から,避難していて内科的に具合が悪くなった方の受診が続くようになりました.整形外科医としては無力であると痛感し,病院の診療状況が麻痺していくなか周囲の避難所や受診できていない住民のことを考えると恐怖と不安,地震の疲労で一日が過ぎていきました.

 2日の午後,最初のDMAT隊が穴水に到着してくれました.早速DMAT隊が搬送を開始してくれることになったのですが,本部との調整後に搬送となるので時間がかかってしまっていることが目につきました.3日の午前にもDMAT隊も出動してくれているものの状況はよくはなりません.外部に支援をお願いしたいと思っても,固定電話,携帯電話はつながりませんでしたが,何故か院内のインターネット機能,Wi-Fiが使えましたので SNSを使って,金沢医科大学病院長の川原範夫先生に連絡することができました.そこで病院の状況と,DMATの搬送先の選定に時間がかかっていることを伝えたところ,「わかった.奥能登の患者,医科大が全部引き受ける.この連絡先も医科大宛のホットラインにしてもかまわないから」と心強い言葉を聞いて,勇気づけられました.(救急外来でちょっと泣きそうになりました.)川原先生と島中院長を繋いで,これで何とかなるとの思いで,診療にあたることができました.
 発災後,出勤してくるスタッフも少ない中,疲れていても昼夜問わず働いたスタッフ,島中院長をはじめ,一宮先生,大筒先生,整形外科の内海先生,検査部の佐藤さん,放射線部の川尻さん,ニチイ学館の清水さん,岡崎さん,病棟スタッフたちには敬意と感謝の意を述べたいと思います.あなたたちのおかげで発災直後を乗り切れたことと,働きぶりをみて私も働くことができたと思います.DMAT隊の,当院の職員は医療者であると同時に被災者であるとの心遣いが身に沁みました.DMAT隊の救急外来の支援が始まり,気持ちに余裕が出てきました.整形外科医として入院機能,手術室の復旧まで外科医としては要をなしません.公立病院の目的として住民の医療を行うのが役割と考えますが,一方で医療を受ける住民がいなくなれば公立病院としては存続できないと思い,避難所の健康管理が必要と考えました.整形外科医として避難所に関われることといえば,エコノミークラス症候群しか思いつきません.周術期の深部静脈血栓症の予防と管理を整形外科は普段行っていますが,災害時の対応については知識も経験もありません.そこで2日の夜に,氷見市民病院胸部心臓血管外科の小畑貴司先生へ連絡しました.(小畑先生には,氷見市民病院在任中に福井信先生に報告してもらった大腿骨近位部骨折における深部静脈血栓の陽性率の調査の際には大変お世話になりました.)小畑先生も発災当初から救急外来と併せて日本静脈学会とのやり取りで忙しかったようですが,静脈学会の能登半島地震タスクフォースへの紹介と,被災地の下肢静脈エコーの経験が豊富な佐藤尚美技師が当院にいることを教えていただきました.(こんな心強い技師さんが当院にいるなんてまさに灯台下暗しでした.以後は院内では佐藤さんと常に活動を続けています.)

 3日には日本静脈学会の孟先生らとの能登半島地震タスクフォースのzoomでの会議に出席し,まずは避難所のエコノミークラス症候群の啓蒙を行うこと,ストッキングの配布は新潟大学の榛沢和彦先生らとエコーによる検診と行うことの方針を伝えられました.(2007年の能登半島地震の際に門前で,エコーを使ってエコノミークラス症候群の記事を目にした記憶が思い出されました.)会議のあとに,佐藤さんと翌日より避難所の啓蒙をおこなうこととし,移動できる範囲,まずは院内の避難者,役場へ啓蒙を始めることにしました.

 1月4日になり,出勤できていなかった医師もすべて揃い,またDMATの支援隊も増えてきたことから,時間の余裕ができるようになりエコノミークラス症候群の院内,そして午後には役場避難所の啓蒙の活動を行いました.そして1月6日に一旦自宅へ戻ることができました.発災後から初めて水で手を洗うことができました.シャワーをして洗濯や必要な物資を買って,あまりにも平常な金沢の風景に後ろ髪をひかれつつ,猫のいることから穴水へ戻りました.猫は地震の後,ベッドの下に隠れて食事もとらなくなっていたのも気がかりでした.

 1月7日小雨,気温が下がり8日から大雪の予想.雪の風景はモノクロになり音がかき消されて雪景色は好きなのですが,救出できていない方やご家族のことを思うと胸が締め付けられました.このころに病院に仮設トイレが設置され,とりあえず自分の排泄物の処理をする必要がなくなりました.

 1月8日雪,14時エコノミークラス症候群の検診の隊として榛沢先生,聖マリアンナ医科大学の三橋里美先生,福井県済生会病院の放射線部技師の坪内啓正先生が穴水に到着しました.島中院長とのあいさつののち、すぐ避難所へ行き検診を開始するというフットワークの軽さで15時から穴水町の役場で検診を行い1時間弱で40名の検診を行いました.血栓の陽性率は8%程度で榛沢先生の予想を下回るものでした.エコーのできない私は何をしているかですが,避難者へ検診の呼びかけや誘導であったり,問診票の記載であったりの雑用です.榛沢先生,三橋先生はそのまま戻られ,翌日より坪内先生と活動することとなりました.

 1月9日雪,病院の外来当番が当たっていないことから9日,10日の両日は検診に費やすことにしました.9日は穴水高校,のとふれあい文化センターで検診を行いました.付近では土砂崩れで16名が犠牲になっています.避難所はプライバシーを守るために仮のパーティションが区切られていますが,とても寒く,雑魚寝で,避難所住民は支援物資や炊き出しで生活を行っている酷い避難環境でした.佐藤さん,坪内先生と私で検診を開始し,私も慣れないながらもストッキングの装着を指導したりしました.1月10日は穴水中学校などの検診を行いました.9日,10日は血栓の陽性率は15%程度で榛沢先生の予想通りの結果となりました.10日には癌既往の方に血栓が見つかり,恵寿総合病院心臓血管外科の西澤永晃先生へ受診をお願いしました.いずれの避難所もダンボールベッドなどなく雑魚寝でしたが,暖房が使えるところ,使えないところで格差が見受けられました.坪内先生は放射線技師でありながら,学位を取得されており,研究の話,これまでのイタリア地震などでの榛沢先生との活動の話など聞かせていただいて,同年代であることもあって刺激になりました.活動期間は2日間でしたが濃厚な2日間を過ごしたこともあり別れが寂しくもありました.

 週末ごとに榛沢先生が訪れ,各県からの日本臨床衛生検査技師会(日臨技)の技師さんたちとともに検診を奥能登4市町に延べ日数で18日間に行いました.検診の内容としては問診,ガイドラインに準じ膝窩以下の下肢静脈エコーを行い,血栓陽性者はロシュのcobasを用いてD-dimerの測定,血栓陽性者とヒラメ静脈拡張した方には弾性ストッキングの配布,装着指導を併せて行いました.また血栓陽性者には医療機関への簡便ですが紹介を行いました.途中より西澤先生も参加していただき,奥能登の常勤の血管外科医が参加するのは大変心強いものでした.4月末の門前町の検診には小畑先生も駆けつけてくださりストッキングの装着指導を行っていただきました.また日本臨床整形外科学会の災害対策の各先生につきましては検診の協力と避難所ロコモ対策を行っていただき感謝申し上げます.4月末までの検診者は1548名,血栓陽性者は136人でした.門前町の1月の検診で静脈血栓とD-dimer高値で,救急車も断られたことから,榛沢先生が自ら恵寿総合病院へ搬送し肺塞栓で救命できたこともありました.日臨技の技師さん方は,北陸だけではなく,東海地域の方が参加していましたが南海トラフ地震に備えて活動していると話されていて,石川県の災害に対して意識の低さを痛感しました.
 奥能登4市町を広範に検診する活動に関われて,継続的な検診,医療支援の運営の難しさを感じたのと,この検診の意義をあらためて実感させられました.半端な災害時の医療支援は自治体,医療関係者に混乱を招くことになると思います.
 被災地の静脈血栓症は長期にわたり血栓の陽性率が高いことが知られています.また血栓症のあった方は肺塞栓症だけではなく,脳血管イベントの危険率も高まることから,今後も,引き続き能登でエコノミークラス症候群の予防検診を自治体と協働し西澤先生,小畑先生,佐藤さんらとともに開催を計画しております.

 検診を行いながら避難所で生活する方々の苦労や,状況を見聞きできたのは貴重な経験でした.変わり果てた能登の美しい風景,門前,輪島市中心部,輪島市一ノ瀬の土砂崩れの現場,珠洲市の被災状況をみると心が痛みましたが,避難所で復旧していこうとする住民や支援活動を行っている方にも勇気づけられました.一方で,避難所ガチャや自治体ガチャといわれる問題があったのも事実です.発災直後には避難所により支援物資の偏りや避難所の運営がうまくいっていないことのなどの問題が見受けられました.ダンボールベッドの避難所の導入は,他自治体と供与関係を結んでいた能都町が早く,災害に対する自治体の意識の格差が見受けられました.榛沢先生も20年前から何も学んでいないと嘆いておりましたが,過去のイタリアの地震,直近の台湾の地震の避難所の運営の在り方をみると日本の災害対策はお粗末です.日本では災害に対しては自治体をあてにするのではなく個人個人の自衛がやはり必要です.  私自身もエコノミークラス症候群の検診活動に力を入れましたが,院内で避難所への活躍が目立ったのはリハビリテーション科の影近謙治先生と耳鼻咽喉科の下出祐造先生でした.影近先生はJRATとして道路状況が悪い中にも奥能登の広範囲の避難所へ運動指導の活動を行っておりました.下出先生は夕方の数時間に一人ででも町内の避難所へ赴き,長期に継続的に口腔管理の指導を行っており,大変であっただろうと思います.
 病院としては,発災後から救急外来のみでしたが1月末より限定的ながら通常外来を再開しました.断水の影響は大きく,長期にわたって院内のトイレも使えず入院療養に制限が出ていることや,給食の療養食の提供が困難な状況が続きました.また清掃や調理部の委託職員が相次いで離職し,当初は院内のスタッフで清掃を行ったりしていました.手術室の復旧が最も遅れ,老朽化したボイラー配管の複数個所の損傷で滅菌が行えなかったため4月中旬に手術室の復旧に至りました.手術室復旧後の病院の最初の手術では再びメスを持つことができたときは喜びをかみ締め,執刀しました.復旧期間中,手術が必要な方などは金沢医科大学病院をはじめ七尾の病院に移送し,多大な負担をかけたと思いますが快く対応いただき深く感謝申し上げます.

 最後に,患者さんたち,病院のスタッフなどと話していて,口々に人生観が変わったと話されます.「生きているだけで感謝,嘆いていてもどうにもならん.ここから,がんばるしかないやろ」とある患者さんの言葉が耳に残っています.私自身,整形外科医として重度の外傷を救命できたとかは一切ありません.整形外科医としては無力だったのが事実です.一方では榛沢先生をはじめ,西澤先生,小畑先生,佐藤さんなどの共に活動した仲間を得ることができ貴重な経験をすることができたのが成果でした.私自身が積極的に検診活動などに携わったのも,地震を契機に価値観が変わったからであると思います.地震後,感謝を申し上げる方は尽きないですが,最初に,町外の奥能登の検診活動にご理解を示し快く送り出していただいた島中先生に感謝申し上げます.また医療支援を行っていただいたDMAT隊,入浴,給水支援を行っていただいた自衛隊,病院職員に炊き出しを提供いただいた台湾仏教慈済慈善事業基金会の方に感謝申し上げます.もっとも感謝すべきは発災後に全面的な受け入れ支援を表明していただいた川原先生をはじめ,患者を多数受け入れていただきました金沢医科大学病院の方々,金沢,加賀をはじめ石川県全体で入院患者の受け入れ,避難者の継続の治療を受け入れていただきました医療関係者に深く御礼申し上げます.穴水町はやっと復旧,これから復興というところですが,引き続き穴水町,奥能登の地域医療に尽力する所存ですのでこれからも引き続きのご指導,ご支援をお願い申し上げます.

 日々の癒しを与え続けてくれ,また,私を穴水へ戻らせ業務に立ち向かわせた,足元で眠るレオにも感謝をしつつ,この手記を終わります.

能登半島地震を経験して

公立宇出津総合病院 整形外科医長 金子 聖司  今年の1月1日、日中は拘束、夜は当直の予定で宇出津の官舎にいました。日中は特に拘束医が呼ばれる事も無く、概ね落ち着いていた状態でした。当直は午後5時からですが、少し早めに病院へ行こうと準備をしていたところ、初めの震度4〜5の地震がありました。一昨年から珠洲市で群発し被害が出ていた地震ですが、今までは、宇出津地区では強くても震度4に届くかどうかといったところで、官舎内の壁に立て掛けた釣竿が倒れた事もありませんでした。しかし、今回は最初の地震も今までの揺れより強く感じました。その直後、震度6の本震に見舞われましたが、文字通り今まで体験したことの無い揺れで、立っていられないのは勿論、しゃがんでいても同じ位置に居られない程の揺れが2分近く続きました。以前、起震車(地震の揺れが体験出来る車)で震度6を体験させてもらった事がありますが、その際は何とか立っている事が出来ました。しかし、今回の地震の揺れは起震車で体験した揺れより強かったように思います。何より地震の持続時間が長かった印象が強く残っています。後で分かった事ですが、外浦側は場所によっては今回の地震でいっきに4mも地盤が隆起したとの事でしたので、2分近く揺れていたのも納得できる状態でした。また、地盤の状態で揺れはかなり変わるとの事ですので、実際は能登町内でも震度7に近いところもあったのかと思いました。

 宇出津の街中も岩山や磯を削った地盤の硬い地区は被害が少なく、川沿いや砂浜を埋め立てた地区は被害が多かったです。幸い官舎は築10年と新しかったので建物自体は損壊や亀裂等の損傷はありませんでしたが、室内は色々なものが倒れてしまい足の踏み場もない状態でした。揺れが収まり病院へ向かう準備をしていると、すぐに大津波警報が出ました。幸い宇出津地区は被災直後も停電することはなく、付けていたテレビが消えることもなかったので、すぐに情報を得る事は出来ました。官舎から出ると、道路のアスファルトはひび割れだらけとなっており、いたる所から水や液状化によると思われる砂が噴出し、電柱は何本も傾き、病院近くの建物も何件かは倒壊したり、傾いたりしている状態でした。

 病院の建物自体は外から見る分には損傷はなさそうにも見えましたが、中に入ると建物内は粉塵で白く濁っていました。所々に亀裂が入り、一部の天井や壁は崩落しており、もし平日の外来診療時間帯であったのなら、多数の負傷者が出ていてもおかしくない状況でした。救急外来は棚に置いてある薬品が落ちていたり、色々なものが倒れた状態で、とても診療や処置が出来る状態ではありませんでした。被災直後であったため、患者さんはまだ誰も救急に来ていないどころか問い合わせもない状態でしたので、救急当番であった日直の看護師と病棟に上がりました。当院は4階と5階が病棟となっていますが、大津波警報が出た際は入院患者を5階に上げる事になっていましたので、まず4階に入院している患者さん達を5階へと上げましたが、エレベーターは強い揺れを受けて止まっており使用できず、歩ける人は自力で上がってもらい、動けない方は担架を使用したり背負って5階に上げました。階段部分の壁は各階のつなぎ目の部分で損傷し、コンクリートの破片や砂が階段に散らかっている状態であり、それで滑って転んだ方もいましたが、新たにケガ人が発生しなかったのは幸いでした。しかし、病棟もガラスが割れたり、床頭台が倒れたり、天井の配管が壊れて漏水が見られたり、電子カルテ用のパソコンが床に落ちてモニターが割れたりと、かなりの被害が出ている状態でした。<各部屋を見回っていると、小さく「たすけてくだ~い」と言う声が聞こえ、ベッドの上に倒れた床頭台の下敷きになった方を見つけました。幸い小さな方だったので、ベット柵のおかげでどこも打撲等はない状態でした。人工呼吸器につながっており、動かせなかった方を除いてほぼ全員が5階への避難を終了した頃、宇出津港に津波が到達したのが5階の窓から見えました。

 宇出津地区は幸いさほど大きな波ではなく、海沿いの建物が流されるような事はありませんでしたが、何度か波が押し寄せ、海沿いの建物は床下や床上浸水の被害を受けました。また、妻から海沿いにある妻の実家は損傷は軽微で津波も大丈夫だったと連絡がありましたが、同じ鵜川地区で多数の家屋が倒壊していると聞き、負傷者が多数来そうだと覚悟を決めました。

 発災から40~50分程して、病院のある場所まで津波が来ることはないと判断し、病棟から救急外来に降り散らかった救急外来を少し片づけ始めました。並行して集まったスタッフで手分けをして被害状況の確認を始めましたが、各部署の被害が大きく、かなりまずい事になったと直感しました。まず、検査室は検査機材が全て床に落ち損傷して使用不可能となっている上に、輸血用製剤を入れる冷蔵庫も倒れ、MAP血や血小板製剤が床に転がっていました。レントゲンの機材は目立った損傷や転倒はなく、CTやMRIも機材や補器の冷却系は動いていましたが、4人しかしない放射線技師さんの誰とも連絡が取れず、しかも2人が珠洲、1人は輪島、もう1人は能登町内で道が寸断した先に住んでおり、機材が無事でも検査が出来ない状態でした。手術室も整形外来が使用するクリーンルームの扉が外れて壊れ、室内に入る事が出来ず、発災直後は被害状況を確認する事すらできませんでした。患者さんが来ても、正直まともな医療が全く出来ないと皆が愕然としていたころ、院長の長谷川先生と連絡が取れました。現状を報告しかなりまずい状態である事を伝えましたが、建物は何とか無事でしたので、出来る範囲で対応する旨を伝えました。院長もすぐに宇出津には来られない状況でしたので、宇出津にいた副院長の三崎先生と医局長の私とで現場の取りまとめと指揮を執るよう指示を受けました。そうこうしているうちに walk in の患者さんや問い合わせの電話が増えてきました。また消防からの救急患者収容依頼も増えてきましたが、道路が寸断したり倒壊した建物が邪魔で救急車が要救助者のところまで辿り着けない悲惨な状況だと徐々に判明してきました。また、被災直後から街中は断水していました。院内は当初は水が出ましたが、貯水タンクが地震で破損し2時間経たずに水が使えなくなりました。ケガ人の洗浄も出来ない状況でしたので、院内の薬剤保管庫から点滴用の補液製剤や生理食塩水を集め、傷の洗浄を行いました。道路が寸断した影響で病院へたどり着ける患者数には限りがあり、少ないスタッフ(医師が計6人(当番2人と非番でも宇出津にいた4人)、看護師が計10数人(当番で元々いた10人と宇出津近辺在住で何とか来れた数人))で何とか対処しましたが、心電図とエコー以外の検査が出来ない状態で、まさに綱渡りの状態でした。

 そんな状態で地震から約3時間半ほど経過した頃、発災から1時間後くらいに収容依頼のあった患者さんがやっと到着しました。この方は43歳の男性でしたが、避難所に着いてすぐCPAとなり、近くの方が救急要請されました。通常であれば救急車が5分もかからず現着し、病院まで10分もあれば到着する距離でしたが、道路の寸断の影響で救急車が現着まで30分以上かかり、そこから病院まで2時間以上経過しての到着でした。薬剤投与や呼吸補助具を装着し懸命なCPRを続けながら搬送されましたが、病院到着時には既に瞳孔は散大し死斑も出始めていました。すでに救命はほぼ不可能な状態でしたが、挿管し心蔵マッサージを継続、薬剤投与を行いました。しかしながら、やはりと言うか当然のように呼び戻すことは出来ず、死亡確認を行いました。ご家族は可能であれば死因の究明をと望まれましたが、CTによるAIは出来ず採血検査もできない状態であった為、致死性不整脈として見送りました。正確には異常死体であり警察にも連絡しましたが、警察も多忙を極めておりとても検死が出来る状態ではないとの事であり、改めて非常事態だと実感しました。

 その間も救急車からの収容依頼が何件もありましたが、救急車が現地にたどり着けない、または病院へ向かう道がない状態であったため、結局、被災当日から翌朝まで当院へたどり着いた救急車は3台のみでした。また、どの車両も側面は傷だらけでパンクしたままの救急車までありました。2台目と3台目の救急車は午前0時頃に到着しましたが、倒壊した家から19時頃に救出された親子が搬送されてきました。40代の父親はおそらく骨盤骨折と腰椎の骨折、10歳未満の子供は Crash syndrome 疑いでした。しかし、何の検査も出来ず(エコーも途中から調子が悪くなり使えず)、身体所見からのみの診断で治療に当たらざるを得ず治療といっても父親にショックパンツを装着し、親子ともに補液しか出来ない状態でした。当初、子供の方は尿の色的に濃い目のミオグロビン尿であり、このまま悪化したら助けられないかも知れないと危惧しましたが、徐々に尿の色が薄まり少し安心出来ました。しかし、CKやクレアチニン等を採血でラボデータの確認はできませんでしたので、一晩中不安ではありました。また、並行して県央への搬送手段を探っていましたが、どこにどう連絡をすれば良いのかもわからず、正直途方に暮れていました。たまたま自治医科大出身で県中の救急に知り合いの多い先生が宇出津に残っていた為、その先生が色々と当たってくれてはいましたが、県中の救急はもちろん県庁の各部署も混乱しており、Drヘリは夜間は無理だけど、自衛隊なら頼めるかも?等いろいろ検討しましたが、搬送に関しては結局何も決まらないまま朝を迎えました。その間も walk in の患者さんはポツポツ来院され、倒壊した家から助け出された転子部骨折とfloating Knee らしい方(後に金沢医科大で手術して頂きました)、肩の脱臼骨折らしい方や足関節の開放性脱臼骨折の方(ともに翌日ヘリで富山県中?に搬送されました)等外傷患者さんが増えてきました。外来で最低限の処置をした後、エレベーターが使えないので毎回担架で5階まで患者さんを挙げていました。また、時間が経つにつれ外傷はなくとも過呼吸になったり、気分不良で受診する方、逃げる際に手指を切断した方や足関節捻挫(外果骨折はあったかもしれません)、小さな外傷の患者さんも徐々に増えていきました。

 2日の午前10時頃、一旦患者さんが途切れたので、スタッフ同士で話し合って応急の災害対策本部を設置しました。そこで院内機材の破損状況や必要物品の確認、要搬送患者の搬送手続きの窓口業務の担当を決めたりしていたところ、能登総合病院のDMATが先発隊として来院し、様々なサポートをして頂きました。その際、県中のDMAT本部と搬送調整をして頂き、先ほどの親子と足関節開放骨折の患者さんの搬送が決まり、1~2時間ほどで石川と富山のDrヘリで県中と富山大学病院へ搬送となりました。DMATが入ってくれてからは、患者さんの搬送や調整がスムーズになり、非常に助かりました。実際に自分たちが被災し支援を受けた事で、その有難みや非常時に組織的に動ける凄さを直接感じる事が出来たのは何より貴重な体験でした。また、その時感じた感謝の気持ちや感激は、今でも鮮明に覚えています。DMAT先発隊の方は夕方には珠洲に向かいましたが、遅くとも翌々日にはDMAT本体が宇出津病院と能登町庁舎に来るとの報告を頂けたのは、疲労が溜まり始めていたスタッフには大きな励みとなりました。  2日の夜も余震は続き、患者さんが途切れることはありませんでしたが、医師も看護師も適宜交代しながら外来患者に対応していました。そして2日の18時頃、能登町内に住んでいる放射線技師がやっと病院に歩いて到着してくれました。機材のチェック後、単純XpやCT、MRIも使えるようになり、やっと画像診断できるようになりましたが、普段普通にしていた事が如何に尊い事だったのかを痛感しました。相変わらず血液検査の装置は破損したままで、後にDMATから貸与してくれた簡易検査装置が届いた7日まで血液検査は出来ませんでしたが、2日の夜から画像診断だけでも出来るようになったのは心強かったです。その後、その放射線技師さんは7日まで連続で病院に泊まり込みで画像を撮り続けてくれました。医師も看護師も適宜休息は取りつつも、皆数日間は連続勤務となっており、気合と気力で何とか目の前の仕事をこなす状態でした。

 3日の夕方には長谷川院長はじめ、ほぼ全ての医師が病院へ到着し、加えて宇出津地区以外に在住の看護師や事務スタッフ等も集まり(事務長は2日の日中、崩れた道を数キロを歩いて病院まで来てくれました)、人的には余力が回復してきました。そして透析患者さんも3日の夕方までには全員が自衛隊の車両で金沢に移る事ができました。その後、DMAT本体が到着し、DMATの方々には医療支援だけでなく食事や災害用トイレの設置等、仕事も生活も助けて頂きだいぶ楽になったと感じましたが、まだまだ余震は続き、先の見えない状態でした。また、検査が出来ずエレベーターも使えず、入院中の患者さんの治療も困難を極め、まず vital sign と聴診、身体所見から病状を把握するしかなく、徐々に全身状態が悪化したり急変した方に、充分な医療が提供できず、何度も歯がゆい思いをしました。DMATの本体が来てくれてからは、そういった患者さんの搬送調整や搬送が進むようになりましたが、1日から3日までの間、病院に入院されていたにも関わらず、ほぼ何も出来ずに病状が悪化し亡くなった方がおり、今でも悔やまれます。その方の主治医の若い内科の先生はとても落ち込み自責の念に駆られていましたが、うまく慰めたり励ます言葉もなかなか見つかりませんでした。転子部骨折の術後で1月10日に自宅退院予定であった私の患者さんも、2日の夜から急な発熱とSpO2低下を認め、CTを撮りに1階に降りることも出来ないまま、3日に亡くなってしまった方もいました。経過からは誤嚥性肺炎か肺塞栓症(年末最終のDダイマーは1.2程度でしたが)を発症したものと思われますが、確定診断は出来ずじまいでした。私が宇出津に赴任した当時から外来や入院時に担当していた方で、ご高齢(90代後半)でもあり、もともと急変時はDNARを希望されていた方ではありましたが、何もしてあげられなかった自分が情けなくなりました。
 被災当初はとにかく目の前の仕事をこなすだけの状態でしたが、数日経過し徐々に落ち着いてくると、整形外科医なのに目の前にいる骨折して苦しんでいる患者さんに手術が出来ず、一時的な外固定と搬送依頼しかできない状況に何度ももどかしさを感じました。しかし、医科大をはじめ、石川県中の整形外科の先生方に多大なご支援や援助を頂き、何とか災害の急性期を乗り越えることが出来、言葉にできないほど感謝しております。

 閑話休題。早くも地震から約半年が経過し、皆様の援助のおかげで病院の機能や仕事はだいぶ通常に戻ってきました。町の復興はまだ始まってもいないところが多々ありますが、もうすぐ能登の祭りの季節がやってきます。宇出津の町も復興が始まったばかりですが、例年通り、7月5,6日にあばれ祭りを開催することがほぼ決定しました。能登の住人にとって、祭りは何より優先されるもので、祭りのために能登に住んで、生きてる人も多くいます。能登出身の妻曰く「祭りがなかったら、とっくの昔に能登から人が消えとるわ」との事ですが、同じことを言う友人がたくさんいます。ただ、あばれ祭りの名の通り、祭りの際の外傷は絶えません。ここ数年は少し落ち着きましたが、以前はキリコと電柱に挟まって指先がなくなった、耳が取れそう、鼻がもげそう、キリコに踏まれてアキレス腱が切れて飛び出している、神輿と一緒に岸壁に叩きつけられて膝が曲げられないし骨が出てる等、開放創上等な事も多々ありました。今年は道がボコボコですので、酔って躓いての転倒骨折も増えそうなので、今から危惧しておりますが。

 地震の直後は十分な医療を提供できませんでしたが、今年の祭りの際には今までのように、しっかりと地域の皆さんを支えられるよう、頑張ろうと思います。また、一整形外科医として微力ながら、妻の地元である能登の方々の支えになれるよう、これからも精進しようと思っております。

整形外科2年目が令和6年能登半島地震を経験して

公立穴水総合病院 整形外科 内海 友希  私は令和5年7月より公立穴水総合病院整形外科に出向しており、震災発生時、整形外科入局2年目5か月でした。
整形外科医としてまだまだ経験不足であり、災害時の緊急対応等も国家試験や中部日本整形外科災害外科学会等で多少の講義を受講した程度の若輩であり、専門的な知識やデータからの報告ではなく、体験談になってしまうことをご容赦いただきたく存じます。
令和6年1月1日16時頃、私は穴水病院の整形外科拘束医として休日に整形外科疾患の患者さんが受診した場合に備えて、病院近くの官舎にて待機していました。

 能登地方ではこの度の震災以前から時折震度1~3程度の地震が発生しており、今回の震災における前震も、かなり強く揺れたな、と重大には受け止めておりませんでした。
しかし、前震から10分程経過し震度7の本震が発生、木造の築30年を超える官舎が倒壊してしまうのではと思うほど、体験した事のない強い横揺れを感じ、揺れに伴い官舎の家具や本棚が倒れ、このまま倒壊に巻き込まれてしまうのではと恐怖を感じました。
幼いころより学校等で教わる避難訓練では、揺れている最中は机の下等で頭部を守り、揺れが収まってから屋外への避難を支持されますが、官舎の倒壊を恐れた自分は、揺れが続く中、倒れた本棚や衣装ケースを乗り越えて屋外に脱出しました。
屋外に脱出したは良いものの依然揺れは続いており、官舎前の電柱や電線は異様な音を立てて振動し、近隣の家屋からは瓦が次々と落下してきている状態でした。

 何とか官舎の雨どいにしがみつき、揺れが収まるのを待ってからすぐに病院へ移動を開始しましたが、道路のアスファルトはひび割れ、所々30㎝程度の段差を生じており、移動している最中も、いつまた余震が起きるか、この震災でどれほどの被害が出るか、今の自分にどれほどの医療活動ができるか、病院の被害状況はどうか、考えがまとまらないまま病院へ急ぎました。
無事に病院へ到着することができましたが、病院も駐車場や敷地内のアスファルトにかなりの被害を受け、建物自体は外観上、ひび割れや病棟、医局棟、管理棟の間に20㎝程度の間隔が空き、隙間から地面が見えている状態でした。
すぐに病棟に移動し患者さんの安否確認を行い、幸いにも病棟内での怪我人は発生しておらず、一安心しましたが、津波の恐れがあることから病棟のナース、駆け付けていただいた他科の先生と協力し、病棟の患者さんを病棟5階に避難誘導、搬送の介助を行いました。
本震発生から30分ほど経過したころかと思いますが、病院外からも避難者が次々と病院に駆け込んでおり、タンカにて患者さんを移動している最中にトリアージを行っていた病棟ナースより、避難時に家屋内で上から落ちてきた陶器が足にぶつかり、出血が止まらない患者さんがいるので見てくださいと声がかかり、病棟5階に仮設の処置スペースを作り診察しました。
患者さんは足関節から先をタオルとビニールで覆っており、外観からもかなり出血したことが予想できました。
患部を確認すると第3趾のMP関節周囲に4㎝程度の開放創があり、生理食塩水で洗浄を行い、攝子にて挫滅した皮膚を少しめくると、末節骨の骨折部を確認することができ、開放骨折と診断しました。
開放骨折の治療経験も数えるほどしかなく、余震で処置中も強い揺れが発生し、使用可能な器具も限られる状態ではありましたが、確保できていた生理食塩水で洗浄、処置し、抗生剤点滴を開始、病棟に部屋を確保し入院としました。
その後も家屋の倒壊に巻き込まれ肋骨や四肢の骨折を受傷した患者さんが次々受診、救急搬送されており、対応に奔走する状態が続きました。
震災のためCT,MRI,血液生化学検査は施行不能であり、Xp、血液ガス検査のみで様々な傷病に対応することとなり、また正月に震災が発生したこともあり、病院に勤務していた職員は限られており、限られた人員、物資での急患対応が続きました。

 夜間となり、外傷の患者さんの受診はひと段落しましたが、避難所での体調不良や暖房のない避難所からの低体温症など、様々な患者さんの受診が続いており、内科や他科の先生と協力しながら対応を継続しました。
病院は断水していたものの、電気は使用可能であり、他の避難所では電気も使用困難であったことから暖房も使えず、夜間には暖を求め、避難所として開放された病棟1階、2階、5階に足の踏み場がないほど避難者が移動してきていました。
震災発生から1月1日の夜間までは4人程度の医師と限られた外来ナースで急患対応を行っており、駆け付けていただいた先生やナースと交代で診療を継続しておりましたが、徐々に疲労が隠せない状態となっていました。
自分も上級医である波多野先生が1月1日の深夜に金沢から駆け付けていただいたタイミングで休憩をとることができました。
しかし、余震は継続しており、仮眠をとろうにも時折震度4・5程度の揺れのためなかなか眠れない状態でした。

 二日目になり、震災発生から一晩経過しても急患は継続的に受診しており、死亡が確認された方も徐々に増え、この度の震災が想像を超える被害をもたらしていることを理解しました。
病院に駆けつけてくださった先生やナース、コメディカルの方たちも穴水町に到着するまでにかなりの苦労をされており、道路状況や避難所の状態も徐々に把握できましたが、やはり救援物資やライフラインの損害状況は把握できておらず、復旧の目途は想像さえできず、以前、町では水道、電気は使用不能であり、携帯電話も回線の混雑からか通信困難となっており、患者さんの家族や病院職員の安否確認もままならない状態が継続していました。
避難時や避難所への移動中にけがを負われた方も多く、地震に関連する様々な事態によって傷病者は増え続けており、救急隊の救助活動も続く中、1月2日は大雨が降っており、気温も低く、救助活動への影響、まだ救出されていない被災者の方、暖房の使用できない避難所へ集まっている方の状況は悪化することが想像に難くありませんでした。
病院内の一部のテレビは使用できており、報道で徐々に近隣市町村の状況が把握できるようになり、輪島の火災や能登方面への移動が困難であり、海岸に隆起や津波による港湾施設への被害、能登里山空港も被害のため使用困難になっているとわかり、自衛隊等の救援到着はしばらく期待できないこともわかりました。
何よりも、震災から1日経過して職員、患者さん、避難者の皆さんも疲れが見え、避難物資も行き届かないため食事やトイレに困窮し、病院のトイレにも流せなくなった汚物がたまり、悪臭も漂っていました。
病院の備品として保管されていたポータブルトイレの使用やビニール袋を便器にかぶせて使用するなどして対応することになったのですが、片付けや廃棄の徹底を避難者に徹底することは難しく、5日に仮設トイレが設置されるまではかなりの不便が伴っていました。

 4日には各県からDMATが到着し、救急外来や透析患者さんの搬送に多大な協力をいただき、1日から勤務を続けていた職員方もようやくまとまった休息をとることができ、非常に感謝したことを強く覚えています。
DMATのご協力で県立中央病院を拠点とし、傷病者や入院患者さんの搬送も可能になり、当院で年明けに手術を予定していた入院患者さんも金沢医科大学病院や県立中央病院、恵寿総合病院、南が丘病院等に受け入れていただき、御加療をいただくことができました。
入院患者さんの搬送や救急対応に余裕が生まれたおかげで自分含め先生方、病院職員の方々も自分の生活や家庭の状況を鑑みることができ、震災後そのままになっていた自宅の片づけや家族の状況確認をすることができました。
自身や周りの職員方の状況を鑑みる余裕ができましたが、やはり感じたのは自分たち医療従事者も被災者であるという事実でした。
自宅が倒壊・もしくは半倒壊してしまった職員さんもおられ、自分の生活が不安定な状態でも患者さん、被災者の方のため職務を継続してくださっていました。
医療従事者であるため震災という状況下では日常以上に特殊な状況で職務をこなさねばならず、負担が大きくなっていることも事実でした。
着替えや洗濯もままならず、衛生状況は悪化の一途をたどっており、自分も被害の少なかった金沢に一時的に移動できるようになるまではかなり不潔な生活をせざるをえませんでした。

 震災から1週間経過し、各方面から避難物資が到着し始め、各避難所に物資が届けられてはいましたが十全とはいいがたく、震災後の衛生状況の悪化、災害関連の傷病の発生、避難者のプライバシー問題等、以前から懸念されていた問題が、やはり現実のものとなっていました。
当院も有志職員、各医療団体と協力し、波多野先生をはじめとしたDVT検診や、耳鼻科の先生のご協力で口腔ケアや誤嚥性肺炎予防の検診を続け、災害関連死を防ぐための努力を続けていますが、やはり住宅や食事の環境が大きく変化したことで体調を崩し、傷病のため受診する患者さんは後を絶たず、各内科、外科、整形外科をはじめ、ナースさん、コメディカルの皆さん一丸となって対応する日々が続きました。

 震災から数か月経過し地域によっては水道や電気、ライフラインの復旧が進んでも、以前の生活に戻ったとは言えず、依然としてたくさんの方々が不都合を強いられていることも、また事実であります。
この文章を書いているのは4月半ばであり、復旧が進んだことも実感してはいますが、いまだに倒壊したままになっている家屋や破損した道路、地域によってはインフラの修繕は不十分であり、震災の影響は深い爪痕を残しています。
自分も復興の一助となれればと、日々の職務に邁進していますが、以前の生活を取り戻すにはかなりの時間がかかることは想像に難くありません。
しかし、復興は少しずつではあっても確実に進んでいます。
職員、被災者の方々、患者さんともに衣食住に困窮し、衛生状況も悪化するなか、職務を継続し、一丸となって震災の被害に立ち向かえたことは自分にとってかけがえのない経験になりました。この経験を踏まえ、これからも経験と勉学を重ね、整形外科医として、病院に受診する患者さんだけでなく、地域の皆様にも貢献するために努力を続けてまいります。

 最後にはなりますが、この震災で亡くなられた方々のご冥福と、穴水町、並びに令和6年度能登震災で被害にあわれた方々が一刻も早く、以前の日常に戻れることを心から祈っております。

2024年1月1日能登半島地震における整形外科専攻医2年目の被災地診療の記録

公立宇出津総合病院 整形外科 髙田 真吾  2024年1月1日能登半島地震を経験し、整形外科専攻医として被災地診療に従事した経験を記載していく。

〈1月1日〉
1月1日は石川県外にいたため、地震が能登で発生したと知ったのは1月1日のテレビ報道でした。報道のすさまじさが今回の地震の大きさを物語っており、すぐさま整形外科医長の上司に連絡をしました。上司の安否を確認し安堵はしましたが、地震による津波の危険があるため患者を最上階に移している最中と聞き、今回の地震の強烈さを受話器越しに痛感しました。そしてもし病院に来れるなら、1日でも早く病院に来て欲しいと連絡をうけました。県外には新幹線で向かっていたため、金沢に帰るための新幹線の手配をしましたが、地震の影響で新幹線は運行しておらず、新幹線の再開を待つこととなりました。

〈1月2日〉
新幹線の運転再開を日中待ち、14時頃に新幹線の運転再開がアナウンスされ夕方の新幹線で金沢駅に向かいました。夜に金沢駅に到着。金沢に到着してから再度上司に連絡し、暗い夜道の車の運転は危険が伴うため、翌日の日中に移動するようアドバイスをもらい、その日は寝床に着いた。

〈1月3日〉
必要物資をそろえ、金沢を朝に車で出発。能登里山街道が柳田まで通行可能であり、柳田まで順調に走行しましたが、インターチェンジ付近で大渋滞に巻き込まれました。ものすごい数の緊急車両が横を通過していくのを今でも鮮明に覚えています。柳田からは県道2号線を走行。下道を走り、能登に近づいていくにつれて、家屋や道の破損が目立つようになってきました。あまりの渋滞にしびれをきかせ、携帯のナビで検索し、でてきた道で迂回路を探そうとしましたが進んで行った道が車で通行できない状況になっており引き返すこともありました。249号線で中島を走行しているあたりから、今回の震災のすさまじさを実際に目撃することになり、穴水に入ったときは自分の目を疑う光景が飛び込んできました。道も家も破壊されており、驚きを隠せませんでした。穴水を通過する頃には日も沈み始め、山の近くを走行し、トンネルを抜けると土砂崩れが起きており、やっと車一台が通れるスペースがあるところもあれば、道が大きく陥没し落ちるか落ちないかのギリギリの状態であったり、途中何台も車が横転しており、それを避けるように走行しました。日が落ちてきてからは視界が悪く、道のどこが壊れているかを目視するのが難しく、前を走っている車が跳ねるか跳ねないかで、道路の破損部位を判断しました。能登町の宇出津総合病院に到着したのは夕方の18時頃。医局の先生方と合流することが出来ました。出発してから9時間から10時間が経過していました。私の上司と再会し、やっと寝れると上司が発言していたことが記憶に残っています。 病棟を見に行くと、患者が廊下に布団を敷いて寝ており、廊下一面に患者が横たわっている状況でした。ある程度は想像していましたが、これが震災後の状況であるのかと感じた瞬間でした。

〈1月4日以降〉
水が無い・検査機器が壊れる・エレベーターが壊れる・薬が無くなる・器材が不足する・輸血が無くなる・人が集まらない(スタッフも被災者)など通常診療を行うにはほど遠い環境の中、外傷患者をはじめ患者が休む間もなく運ばれてきました。各科総動員で診療にあたりましたが診療が追いつかず時間だけがものすごい速度で過ぎていったことを覚えております。 食事は満足に摂ることが出来ず、ピンポン球にも満たないおにぎりを1日1個だけ支給された日もありました。継続する余震にも慣れてしまい、震度4程度なら睡眠時に起きることも無くなりました。一般外来は閉じた状況で救急外来のみ稼動。エレベーターが直るまでの期間中、入院患者は救急外来から5階までスタッフが人力で運ぶ重労働が続きました。トイレは流すことも出来ず、DMAT退院が用意した災害用トイレがくるまでは便が便器に積み上げられ、夜間など視界が悪い時は座ったときに下に積み上げた便が殿部に付着することもありました。シャワー等は浴びることはできず、しばらくはシャワーを浴びることを忘れていました。ただ飲み水があることに感謝しました。

 DMAT隊員が1月5日から当院に常駐し、夜間の診療や専門外の診療の補助をしていただいた事で自分たちも体を休める時間を確保できたことに心より感謝しております。DMAT隊員がきてからは入院患者を他院へ搬送する仕事が増えました。なぜなら、病院としての機能が破綻していたことや災害関連死を予防する観点からです。スタッフも被災者であり、全スタッフが出勤できることは無く、病院に出勤できるわずかなスタッフだけで仕事をまわしていました。また薬も無い・食事・水が無い・検査も出来ない・手術も出来ない・何もできない状況で患者の入院治療を行うことは難しく、100床可動可能な病院の病床数を20床程度の規模にすることに決めました。DMATの車両や・自衛隊のヘリを使用しての患者の搬送。行き先はわからず、石川県立中央病院宛に紹介状を書き、一人でも多くの患者を搬送させることに注力しました。中には死んでもいいから能登町から離れたくないという患者、家族と離れたくないと強く訴え涙する患者を家族の承諾を得た上で半ば強引に搬送したケースもありました。外傷性SAHと多発骨折の夜間患者搬送時には片道4・5時間かけて救急搬送に同乗し、石川県立中央病院へ搬送後とんぼ返りで宇出津病院へ帰ってきたこともありました。夜の金沢の街灯が震災前と同じまばゆい光を放ち、普通の生活を送っている状況になんとも言えない気持ちで救急車に乗り能登町に戻ったのを覚えております。

 時間の経過とともに外傷や重症患者は少なくなってきましたが、その後インフルエンザやコロナといった感染症に罹患する発熱患者が多くなっていきました。当院も発熱外来を設置して内科をメインに診療に当たっていました。しかし、あまりにも発熱外来の患者数が多くなり、内科だけではなく全科医師さらにはDMAT隊員にも手伝っていただき一丸となって発熱外来にとりかかりました。ちょうどその頃からスタッフ間にも疲労が見え始め、些細なことで言葉をあらげる場面が少しずつみられるようになってきました。そのとき初めてスタッフは医療従事者である前に被災者であるとの事実に気が付かされました。人の命を守る使命感に駆られて病院に出勤できた全スタッフがマンパワーの足りない中で奮闘してきましたが、そもそもが被災者であり皆さんギリギリの中で仕事を続けていたのです。DMAT隊員が、宇出津病院の皆様は休めるときに休んで下さいと、しきりに発言していたことの意味がようやくわかりました。
能登町に自衛隊の入浴施設が開かれ入浴した際には、自分の身体のあかがこんなにもあったのだと驚きました。入浴の浴室に張られたお湯の表面は、久々に入浴した住民のあかで埋め尽くされており、自衛隊員が一人選任で湯に浮いてあかをすくっていた程です。
現在は感染症も落ち着き、病院の病床数も徐々に回復し、通常診療も再開してます。
しかし能登町の復興は始まったばかりであり、震災前の状況に戻るには多くの月日が必要と感じています。

 最後に、現地入りしていた医療従事者の皆様はもちろん、能登以外で私達を支援していただいた全ての医療従事者の皆様に感謝申し上げます。